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【2024/05/16 11:06 】 |
インターネット

やはり、人様の出したお題に乗っかると、ノリが掲示板っぽくなる。ほどほどにしておこう。
その掲示板、これまで、はまった時期が二回あった。
ちょうどWindows95が発売された頃のMSN提供掲示板と2000年代中盤の2CHである。

MSN提供の奴は(当時MSNとは言わなかったかな)、まだ、お互い物凄く緊張感のあるコミュニケーションを行っていたように記憶している。初期の頃の、話題があって、その話題の下にツリー形式でレスポンスがついてゆくアレである。相手を馬鹿呼ばわりすることも、マッチポンプのような真似をすることも、犯罪まがいの発言をすることも無かったはずである。全員がコテハンで、Emailアドレスを公開し、敬語を使い合って。

いや、MSNがそのサービス提供をやめる直前ころ、全体のトーンが微妙に現在の2chの兆候を帯びだしてきたのを記憶している。やはり、そういう状態になるのは避けられないのか。

で、数年間、インターネットは接続するけれども、掲示板はもういいや、と思っていた所で、2chのアナーキーなパワーにちょっと嵌ってしまったわけで。それでも、特定の板の特定のスレで地味に書き込むだけだった。いや、何より驚いたのは、私達以前の世代くらいで収束していた筈の、ないしは公の場ではほとんどタブーとされていた筈の、そして、何よりも古い時代の死語とされていた筈の、「言葉」がネット上で憚ることなく流通してしたことである。さすがに、偽善といわれようが何だろうが、そういう話には乗らなかったが。

一つのスレ上で、とてつもなく下らない話題をめぐって、一ヶ月くらい延々と喧嘩をしたこともあるし、「祭り」状態の尻馬に乗って、特定の団体・個人をこき下ろしたこともある。会社の悪口を書き立てたこともある。

でも、ある日突然「鏡に映った自分の姿を見て敵だと思って吠え立てているに過ぎないのだ。」と悟り、きっぱりと、やめた。

いきなり話を大きくするが、Youtubeとかの英語の書き込みを見ても、全世界ネットの書き込みのアナーキーさ加減は共通である。比較的、チェックの厳しいYoutubeにしてからがそうなのである。
ここら辺に、意外と人という生物の知性の限界があるんじゃないか、と、感じてしまう。

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【2010/09/03 11:46 】 | 社会・経済 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
ある創業者像
ある創業者について書く。

メディアの評判は、本人が本人のために行っている宣伝活動を差っ引いて考えれば、ま、可も無く不可もなしとうところか。
所謂「ヒルズの勝ち組」風のお兄ちゃんである。実態は、創業して、投資家から金を集めて、銀行から借金して、事業を潰す寸前のところまで行った、という、ま、勝ち組と呼ぶには少し抵抗のあるキャリアではあるが。最終的にはさる企業の傘下に入ることで、救われたが。借金ごと。

それでも、本業そのものは、真面目にやっていればそれなりに儲かる事業であり、またそこまで事業を育てた手腕には敬服する。が、そこまでの借金(年末ジャンボ一等前後賞を数十回当たる必要あり)を他人様に放り投げて、シャアシャアと別の場所で成功者面しているのは、ま、他人事ながら、その借金を背負った人々には同情してしまう。

その事業の建て直しに関わった人と話しただけの認識ではあるが、そして無論これ以上詳しく語るわけには行かないが、その人物は、創業のパワーは持っていたが、経営のパワーは残念ながら持っていなかったように思う。

その人物は、本業がいよいよ儲かると言う段になって、次の「創業」に手を出してしまった。また、同類の「創業」以外の能力に欠けている他人に投資してしまった。ファンドからもお金を入れ、銀行からもお金を入れた。
会社の実態に比して会社の構造は複雑になり、人物の肩書きも増えていった。ファンドからも人材が派遣されてきた。それもまた、その人物の望む創業の一面であったろう。ただし、損と借金だけが雪だるまのように増えていった。(どうもこの手の創業者には、身の丈以上に会社構造をややこしくしたり、身の丈以上の投資案件に手を出してみたり、というパターンが多いような気がする。さすがに名刺の上に肩書きが増えることがモチベーションになっているのではないか、とは言わないが。)

そして、さる大手資本が、その事業ごと丸々買い取ることとなったのである。宝くじ以上の幸運である。

しかし、褒めるべきかとも錯覚してしまうくらい、その人物は、懲りていないのである。
懲りていないどころか、次の「経営」に手を出しているのである。繰り返すが、何の経営であるかは言えない。が、果たして、この人物にその経営を任せて良いか、不安である。

ひょっとすると、創業者と言うものはそういうものかもしれないが。
ひょっとすると、私のほうが小市民的退嬰のなかで、そういったダイナミズムを失っているだけかもしれないが。
【2010/09/01 12:04 】 | 社会・経済 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
ジョン・ハーシー 「ヒロシマ」

NYに住んでいた頃のこと。
ブルックリンブリッジとマンハッタンブリッジが三角形を成してブルックリンに入ってゆくたもと。ダンボ(Down Under the Manhattan Bridge Overpass)と呼ばれる一帯の中に、こじんまりした古本屋がある。少しイーストリバー沿いに出れば、映画やグラビアで見慣れた、ブルックリンブリッジ越しにマンハッタンを望むことのできる、あの場所である。

その古本屋に「Hiroshima」という、僅か100ページ余りの本があったので、手にとって見た。装填は相当古い。表紙は原爆投下から10分後に撮ったとされている、あの少し崩れたキノコ雲の写真である。

当時は、ジョンハーシーという著者名すら知らなかったが、何ページかめくってみると「Tanimoto」とか日本人名が記されており、単に「落とした側」の手記ではなかろうと言うことで、レジに持っていった。値段は3ドルだったか。元々の売値は50セントである。

内容は、詳細は避けさせていただくが、谷本清牧師の被爆体験を軸に、あの日、ヒロシマに居た何人かの人々の体験が同時進行的に描かれている。谷本清と言う、原爆の悲惨さをいち早く世界に広めようとした人物もまた、この本で知った。小学校の修学旅行で、原爆資料館を見て衝撃を受けてから、もう何年もヒロシマの情報には出来るだけ接しようとしていたにも関わらずである。

英語にもかかわらず、多分ヒロシマについての基礎知識の助けもあり、数日で読みきった。

原爆投下直後、まだまだ日本への偏見が大きく残っていたであろう、あの時期に、このような冷静な手記を残すことの出来た、アメリカの理性には拍手を送りたい。勿論、一方で、原子爆弾をシビリアンに対して実戦使用した狂気は許されるものではないが。

「ヒロシマ」が掲載されたThe New Yorkerは、大反響となり、一瞬で売り切れたと聞く。来るべき核の時代への不安がそうさせたのか、ニューヨーカーは今も昔もリベラルなのか。

引越を重ねたので多少ボロボロになってしまった。ここマイアミではこのような古本屋にめぐり合うことなど皆無であるが、NYに行くことがあれば、「保存用」のもう一冊を買っておきたい。

レジの初老の女性が、「This is really good.」と言ってくれたのは、耳について離れない。
アメリカの理性である。

 

【2010/08/31 11:26 】 | 社会・経済 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
中国雑感①

紀行文風に中国のことを。

 9日 午後4時。上海到着。目的地は福州であるため、更に上海から乗換えが必要である。
フライトの都合で上海浦東空港で4時間待たなければならない。

 前回中国に入国したのは20年前。今、売店の店員さんは微笑みと、私が日本人であることに気付けば、片言の日本語で応対してくれる。コーラ一本買うのに「怒られた」かつての社会主義では、もはや、ない。たとえ、上海の国際空港であり、えてして国際空港と言うものは国家のショーウィンドウであったにしてもである。

 福州行き搭乗ロビーにたどり着く。さすがに日本人はわずかしか居ない。空港のTVモニターでは中国語で、中国の少年が、ラップを歌っている。隔世の感。知識としては理解していたが、それでもイメージの中で「文化大革命」を未だに中国の実像にオーバーラップさせていた自分自身を大きく恥じる。あれから40年近く経って居るのだ。
 擬人化された豚のアニメが出てきたと思ったら、新型インフルエンザ予防の啓発ビデオだった。これもラップに合わせて。これはなかなか気に入ったので、ネットに誰かアップしてくれないかと期待している。

 福州空港に着く。夜11時。「とてつもない田舎空港」を覚悟していた自分を再び恥じる。
 出迎えてくれた小姐(恋人とかそういった類の相手ではないです。ちなみに)のクルマに乗って、福清市へ。
 福清市は福州市から約30KM離れた場所にある。小姐は、とても田舎であることを恥じていたが、なかなかの街である。
 福清市の繁華街にて小姐と路上で「屋台飯」を食べる。20年前の北京と現在の福建省福清市では味も何も違うと思うのだが、この屋台飯で食べたタンメンは、変わらぬ味のような気がした。うまい。
 東京では、こぎれいな格好をして、ギャル風を装っている小姐も、こちらでは総額百円以下であろうそのタンメンと、路上で展開されている人々の喧騒にピッタリとはまっている。やはり、故郷なのだ。

【2010/08/30 08:04 】 | 社会・経済 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
上司の振り上げたコブシ

 ま、酒場の愚痴に近いが、かつての経験。

 というか、複数回違う上司と、違うシチュエーションで似た経験をしているので、以下は、まあ、例えだと思ってほしい。

○上司がさる事柄について質問してくる(当然社内ではその道の専門家として通っている)。
○上司は、専門家としての自信から、当然私ごときに意見陳述など求めておらず、単に私の業務知識の不足を自覚させるために質問していることは解る。
○回答は、A、Bどちらかが考えられるが、上司がどちらの回答を期待しているかはわからない。不確定性の高いビジネス上の選択のことであり、どちらを答えても正解といえば正解である。
○上司の期待しない回答をすれば、当然「だからお前は日頃の研鑽が足りない」と説教が始まる。
○たとえ私が上司の期待する解答を選択したとしても、上司は更に難易度の高い次の質問をいくつか用意しており、それらに全て答えることは不可能に近い
○むしろ、上司は私がどちらを選んでも「お前は日頃の研鑽が」という説教を変える気は無さそうである。
○そこまで考えたら、何やら馬鹿馬鹿しくなり、多少はマシかもしれない「A、Bどちらかが、選択肢として存在すると思われますが、Aのメリット・デメリットはカクカクであり、Bのメリット・デメリットはシカジカであって、現段階ではどちらを選択するかは判断が付きにくいものと考えております。」・・・などどいう優等生的回答をする気も失せ、全てを省略して、「ワカリマセン。スミマセン。」という煮るなり焼くなり好きにしてくれ的回答になってしまう。それで、説教である。
○説教になれば、限りある業務時間が奪われ、クオリティが落ち、机上にペンディングの書類が溜まってゆく。深夜残業か、関係部署や顧客に謝罪である。

 別にその上司達を恨んでいるわけではないし、むしろ彼らの仕事に対する執念とか、該博な業務知識、人脈の広さは当時の彼らと似た様な年齢になった今でも凄えと思っている。当時の薄っぺらな知識で仕事のクオリティも低かった私のほうが、説教に値する状態であったことは当時から否定していない。

 ただ、上司の振り上げたコブシを如何に無難にやり過ごせるかばかりを当時は考えていた。

 ただ、現在でも、「回答」は見つからない。上司としての回答も含めて。

 

【2010/08/28 21:34 】 | 社会・経済 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
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