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【2026/02/04 13:27 】 |
ある創業者像
ある創業者について書く。

メディアの評判は、本人が本人のために行っている宣伝活動を差っ引いて考えれば、ま、可も無く不可もなしとうところか。
所謂「ヒルズの勝ち組」風のお兄ちゃんである。実態は、創業して、投資家から金を集めて、銀行から借金して、事業を潰す寸前のところまで行った、という、ま、勝ち組と呼ぶには少し抵抗のあるキャリアではあるが。最終的にはさる企業の傘下に入ることで、救われたが。借金ごと。

それでも、本業そのものは、真面目にやっていればそれなりに儲かる事業であり、またそこまで事業を育てた手腕には敬服する。が、そこまでの借金(年末ジャンボ一等前後賞を数十回当たる必要あり)を他人様に放り投げて、シャアシャアと別の場所で成功者面しているのは、ま、他人事ながら、その借金を背負った人々には同情してしまう。

その事業の建て直しに関わった人と話しただけの認識ではあるが、そして無論これ以上詳しく語るわけには行かないが、その人物は、創業のパワーは持っていたが、経営のパワーは残念ながら持っていなかったように思う。

その人物は、本業がいよいよ儲かると言う段になって、次の「創業」に手を出してしまった。また、同類の「創業」以外の能力に欠けている他人に投資してしまった。ファンドからもお金を入れ、銀行からもお金を入れた。
会社の実態に比して会社の構造は複雑になり、人物の肩書きも増えていった。ファンドからも人材が派遣されてきた。それもまた、その人物の望む創業の一面であったろう。ただし、損と借金だけが雪だるまのように増えていった。(どうもこの手の創業者には、身の丈以上に会社構造をややこしくしたり、身の丈以上の投資案件に手を出してみたり、というパターンが多いような気がする。さすがに名刺の上に肩書きが増えることがモチベーションになっているのではないか、とは言わないが。)

そして、さる大手資本が、その事業ごと丸々買い取ることとなったのである。宝くじ以上の幸運である。

しかし、褒めるべきかとも錯覚してしまうくらい、その人物は、懲りていないのである。
懲りていないどころか、次の「経営」に手を出しているのである。繰り返すが、何の経営であるかは言えない。が、果たして、この人物にその経営を任せて良いか、不安である。

ひょっとすると、創業者と言うものはそういうものかもしれないが。
ひょっとすると、私のほうが小市民的退嬰のなかで、そういったダイナミズムを失っているだけかもしれないが。
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【2010/09/01 12:04 】 | 社会・経済 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
ジョン・ハーシー 「ヒロシマ」

NYに住んでいた頃のこと。
ブルックリンブリッジとマンハッタンブリッジが三角形を成してブルックリンに入ってゆくたもと。ダンボ(Down Under the Manhattan Bridge Overpass)と呼ばれる一帯の中に、こじんまりした古本屋がある。少しイーストリバー沿いに出れば、映画やグラビアで見慣れた、ブルックリンブリッジ越しにマンハッタンを望むことのできる、あの場所である。

その古本屋に「Hiroshima」という、僅か100ページ余りの本があったので、手にとって見た。装填は相当古い。表紙は原爆投下から10分後に撮ったとされている、あの少し崩れたキノコ雲の写真である。

当時は、ジョンハーシーという著者名すら知らなかったが、何ページかめくってみると「Tanimoto」とか日本人名が記されており、単に「落とした側」の手記ではなかろうと言うことで、レジに持っていった。値段は3ドルだったか。元々の売値は50セントである。

内容は、詳細は避けさせていただくが、谷本清牧師の被爆体験を軸に、あの日、ヒロシマに居た何人かの人々の体験が同時進行的に描かれている。谷本清と言う、原爆の悲惨さをいち早く世界に広めようとした人物もまた、この本で知った。小学校の修学旅行で、原爆資料館を見て衝撃を受けてから、もう何年もヒロシマの情報には出来るだけ接しようとしていたにも関わらずである。

英語にもかかわらず、多分ヒロシマについての基礎知識の助けもあり、数日で読みきった。

原爆投下直後、まだまだ日本への偏見が大きく残っていたであろう、あの時期に、このような冷静な手記を残すことの出来た、アメリカの理性には拍手を送りたい。勿論、一方で、原子爆弾をシビリアンに対して実戦使用した狂気は許されるものではないが。

「ヒロシマ」が掲載されたThe New Yorkerは、大反響となり、一瞬で売り切れたと聞く。来るべき核の時代への不安がそうさせたのか、ニューヨーカーは今も昔もリベラルなのか。

引越を重ねたので多少ボロボロになってしまった。ここマイアミではこのような古本屋にめぐり合うことなど皆無であるが、NYに行くことがあれば、「保存用」のもう一冊を買っておきたい。

レジの初老の女性が、「This is really good.」と言ってくれたのは、耳について離れない。
アメリカの理性である。

 

【2010/08/31 11:26 】 | 社会・経済 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
飯島真理さん
二十数年ぶりにはまっている。
地方の高校生だった当時、インターネットなんざ無かった当時、彼女のアルバムを見つけるだけでも大変なことであった。

今、インターネットを利用して、あろうことか、彼女がペットのウサギ(バニーちゃん?)と絡んでいる映像がYoutubeで見ることが出来る。ちょっと(結構)皺の入ってしまった、彼女の目尻もチェックすることが出来る。
本人も気になっているらしく、正面から顔を写す時は、光を思いっきり当てている。

いや、幻滅しているんではなく、ご大層なオヤジとなった私ではあるが、永遠の18歳として、今でも彼女の歌声のファンである。今でも「まりン」をフルに歌えた自分に少し驚愕した。
但し、「マクロス」とかは後付で聞いた話であり、私は「飯島真理」から入ったファンである。

拝啓 飯島真理様

ロサンゼルス在住とのこと。フロリダ在住のオッサンが飯島真理サイトでCDを購入いたしました。
大切に聞きます。

敬具
【2010/08/30 12:27 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
過疎

 日本の田舎のお話。
 過疎、とか言われてもう何十年にもなる。
 グーグルアースで見れば、山間のほんのわずかの割れ目のような地域に過ぎない。
 人口は数千。取り立ててこれと言った産業も無い。

 10年前までは、この街も、高度経済成長期の過疎の波に洗われた後、何とか、僅かずつではあるが、発展の道をたどっていた筈である。スーパーマーケットも建ち、中学校は新築され、キャンプ場も出来た。コンビニも国道沿いにできた。バブル崩壊の影響、というよりは、バブル経済自体がこの街に押し寄せることも無く、人々は、東京やその他都市部で起こっていることに比べれば、はるかに静謐に、しかしながら堅実にこの街で営みを続けて居た筈であった。

 今から思うと、80年代~90年代に国家を代表するような有力政治家をこの街が出したことも、この街が何とか発展を維持できた理由であろう。「林道」にしては不似合いな、立派な舗装とガードレールのついた道ができ、この街の人口にしては不似合いな「●○センター」なる施設がいくつか建てられた。町内限定のTV放送局も出来た。それによって、人々は雇用が確保され、人々の消費によってこの街は潤っていた。

 10年間、海外に居て、ほとんどこの故郷に帰ることは無かったのであるが、帰って見ると、一変していた。その間、その有力政治家は死亡し、隣村・隣町と合併し、これまた不似合いな「市」となっていた。隣町に開通した高速道路が、街の中を通っていた「国道」からクルマの往来を持ち去ってしまっていた。

 自宅の窓から眺めると、時折スーパーから漏れ出す音楽が空ろに響き、街中を歩いても、人と会うことは稀であった。たまたま帰省して一日二日眺めただけであるので、ひょっとしたら、一番静かな瞬間しか見ていなかった可能性はある。また、この街から見ることのできる空を天下の全てと思っていた、子供の頃とは感受性が異なるかもしれない。

 けれども、市町村の合併により、街としてのアイデンティティは失われ、高速道路は、人々や物資の往来を奪って行った。真の過疎がこの2000年代に入ってやってきているように思えた。

 年老いたら、この町に戻り、この街の行く末と共に暮らしてゆきたいと思う。



 

【2010/08/30 12:07 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
中国雑感①

紀行文風に中国のことを。

 9日 午後4時。上海到着。目的地は福州であるため、更に上海から乗換えが必要である。
フライトの都合で上海浦東空港で4時間待たなければならない。

 前回中国に入国したのは20年前。今、売店の店員さんは微笑みと、私が日本人であることに気付けば、片言の日本語で応対してくれる。コーラ一本買うのに「怒られた」かつての社会主義では、もはや、ない。たとえ、上海の国際空港であり、えてして国際空港と言うものは国家のショーウィンドウであったにしてもである。

 福州行き搭乗ロビーにたどり着く。さすがに日本人はわずかしか居ない。空港のTVモニターでは中国語で、中国の少年が、ラップを歌っている。隔世の感。知識としては理解していたが、それでもイメージの中で「文化大革命」を未だに中国の実像にオーバーラップさせていた自分自身を大きく恥じる。あれから40年近く経って居るのだ。
 擬人化された豚のアニメが出てきたと思ったら、新型インフルエンザ予防の啓発ビデオだった。これもラップに合わせて。これはなかなか気に入ったので、ネットに誰かアップしてくれないかと期待している。

 福州空港に着く。夜11時。「とてつもない田舎空港」を覚悟していた自分を再び恥じる。
 出迎えてくれた小姐(恋人とかそういった類の相手ではないです。ちなみに)のクルマに乗って、福清市へ。
 福清市は福州市から約30KM離れた場所にある。小姐は、とても田舎であることを恥じていたが、なかなかの街である。
 福清市の繁華街にて小姐と路上で「屋台飯」を食べる。20年前の北京と現在の福建省福清市では味も何も違うと思うのだが、この屋台飯で食べたタンメンは、変わらぬ味のような気がした。うまい。
 東京では、こぎれいな格好をして、ギャル風を装っている小姐も、こちらでは総額百円以下であろうそのタンメンと、路上で展開されている人々の喧騒にピッタリとはまっている。やはり、故郷なのだ。

【2010/08/30 08:04 】 | 社会・経済 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
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